海外留学時に、美術館にたくさん行きました。
そこで感じたことをお話します。
1枚の絵の前で
美術館で、1枚の絵の前で、海外の小学生の集団が、先生と一緒に、議論をしていた。
先生は、この絵を見て、何を感じますか?「What do you think?」「What do you feel?」と生徒に投げかけ、小学生は、それぞれ感じた事を自分の意見として発言していた。
先生は、決して否定することなく、なぜその意見になったのかを更に質問し、生徒の意見を明確にしていった。
また、生徒同士は、それぞれの意見に同調するわけではなく、全く違う角度で様々な意見を述べていた。
そのような光景があちらこちらの絵の前で行われていた。衝撃的だった。
私が日本で受けてきた美術の授業とは、全くかけ離れていたからだ。
環境の違い
日本とヨーロッパの環境が違うから、小学生でも絵に対して、意見を述べることができるのか?
確かに、ヨーロッパは、ルネサンス時代に、創造された美術品、絵、造形の数があり、美術館に行かなくとも、街中にアートが溢れている。幼少期からそのような光景に触れてきた小学生なら、アートに対する考えが、自然と生まれていてもおかしくない環境なのかもしれない。
ただ、日本にも、神社、寺といった、日本特有の古い建物が至るところにあり、多くの外国人が、そのような光景をアートと感じ、撮影する為に訪問する。日本にもアートとして取り扱うことができるものが数多く存在するのに、それを大人が、子どもたちに、問いかけているだろうか。宝の持ち腐れになっていないだろうか。
他人を受け入れ、尊重する
先程の出来事で、他人を尊重する小学生の姿が見られた。
1枚の絵に全く違う意見を出す生徒に対して、否定的な言葉を発する他の生徒は存在しなかった。
1枚の絵を見て全く同じ意見になることはないと皆が思っているからこそ、自然と違った意見でも受け入れられるのかもしれない。
日本でも同じ状況で授業をしたらどうだろうか?
日本人は正解を求め、他人の意見に同調し、大多数の意見を気にして、流され、1つの同じ意見にまと丸かもしれない。
最近はそうでもないかもしれないが、少なくとも、私が幼少期の記憶では、同じ解釈になるように、先生が誘導していたように思える。(ませた小学生の意見)
確かに、欧米は、人種が様々で肌の色も違えば、育ってきたバックボーンが違う人達の集まりだが、日本は、人種も同一、育ってきたバックボーンもほとんど同じであろう。まず、その時点で、自分と違った他者を受け入れることが、難しいのかもしれない。
親として子どもにできること
私は親として子どもが、皆がやっているからという理由だけで、人と同じ事をさせたくはない。集団で同調することは大切だと思うが、同調し過ぎであると思う。少しぐらい人を違う事をすると意識して、ちょうど良いと思う。
そうすれば、他人の目も気にならなくなり、自分と違う意見の他人も受け入れることができると思う。自ら集団の多様性を生み出せる存在になってほしい。
今までは、与えれた課題に対して、最短の方法は何で、正解は何かを導き出き出すことが求めれてきた。
だが、現在社会において、正解のないことを求められるようになってきている。
予想もつかない未来に対して、これからの子どもは自分たちで考え、行動する事で、これからのVUCA(※)な社会を生き延びなければいけない。その点、正解のない、様々な解釈が生まれるアートに触れる事は、非常に需要な事だと思う。
※:VUCAとは、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字を取った造語で、社会やビジネスにとって、未来の予測が難しくなる状況のことを意味します。
親として、子どもに何事も教えるのではなく、子どもの意見を引き出す気持ちで、何事も接していきたいと思う。
まずは、美術館、神社、寺に行って、日常とは違う場所で、「What do you think?」と投げかけてみたい。
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